お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

よく日本人は「平和ボケ」してる…って聞きますが、「平和ボケ」しててはいけないの?

「自分らしく生きる」事を信条とし、これをマスコミの前で悠然と語るタレントがいる。
これを真似てかどうか分からぬが、一般の人々も大した考えを持ち合わせていないのに「自分らしく生きたい…!」と安易に言う人が多い。

こういった声を聞く度に、『何と平和な国に暮らしておることよ!』と妙に感慨深(かんがいぶか)い心境になる。
というのも「自分らしく生きること」を志向すること自体が、平和を十分満喫し享受し続けている姿だから…。

下克上(げこくじょう=下位の者が上位の者の地位や権力をおかすこと)の起こった戦国時代にあっては、一族でさえ敵・味方に分かれて戦った。
そこでは日常的に領地を巡る駆け引きが画策されておったという。
たとえ刀を交えなくとも、心の中では平生より敵と戦い続けておったという事じゃ。
縁戚関係があったとしても、各々が推す領主とその家臣団との関係性や勢力分布によって、敵・味方に二分され親戚同士が戦場で相見(まみ)える事も少なからずあった。

戦況は猫の目の如く目まぐるしく動く。
戦況に応じ「鋭敏且つ柔軟に対応した戦略」を立てる事。
これを間髪を容れず(かんはつをいれず=即座に・咄嗟に)画策出来る頭領のもとでしか生き残ることができぬ。

ここには「自分らしく生きる」事など度外視される状況が揃っておった。
というより「自分らしく」「アイデンティティを優先する」生き方などサラサラ無かったといえはしまいか?

現今の日本にあっては歴史的な条件や近代的内面の充実が整ったお陰で、自分の「一定程度の自由や平等」が担保されこれが配分されておる。
それ故に「アイデンティティの確立」を促す事までも、ある程度のレベルまでは優先的に享受出来る。
そんな歴史的・政治的環境がそこそこ整っている「平和」の国「ニッポン」。

「侍」と言う名詞の語源をたどると、貴人(きじん=地位・身分の高い人)の傍近くにお仕えし、身辺警備する事に由来する。
「侍」は、より公共性の高いお方の為に、身を捨てる職分(しょくぶん=役目)であった。
それは主君であったり大義であったりする。それらは常に「私」に優先するのが、首尾一貫した侍の原理・原則であったのだ。

アイデンティティ優先主義」で生きる事が、ある程度許容される今の日本の社会。
それは国民が比較的自由で気ままな「政治的な決まり」の中で泳ぎ回っておられるからだ。

これが歴史的な条件が崩壊し変化した場合、状況は一変する。
かつてオウム真理教の一連の事件が起こった。
オウム真理教は「オウム真理教政府」のような様相を呈し、恰も本当の政府がそこに存在するかの如く、実際に様々な職責を担った大臣を教会内に配しておった。

かくして1995年3月22日「地下鉄サリン事件」が起こった。
もし彼らが「サリン」と言う猛毒を盾に、日本全国を牛耳っていたら…どうなっていただろうか?
サリン事件の頃…と言えば、ちょうどソビエト連邦が崩壊した時期と重なり合う。
1991年12月25日ソ連は崩壊した。ソ連崩壊後旧ソビエトの兵器は、比較的自由に格安で取引されていたらしい。

実際オウム真理教ソ連にも支部を置き、上祐氏はソ連での支部長となっていた。
サリン事件後は、彼が教団広報係の様な役割をはたし、度々世間を騒がせておった。
彼は今現在も「ひかりの輪」と言うグループを作り宗教活動を行っている。

ソ連から強力な武器や(ひょっとして)核爆弾の技術が輸入されていたなら…と考えるだけで身震いがする。
まかり間違えば、「オウム真理教国」が建国されていたかもしれない。

そうなるとおそらく極度の似非(エセ)宗教的イデオロギーに立脚した、似非(エセ)ヒエラルキーが構築され、一般国民は途方も無い不自由と不本意なる生活や生き方・考え方を甘受(かんじゅ=逆らわずに甘んじて受け容れること)していたに相違ない。
これを考えただけでもゾッとする。

現に北朝鮮では、国家的大義の前では、個人的な意味での「私らしさ」など…、国民全体が思いついてもいないだろう。
下手に「私らしさ」を主張したら、生きていけないのだから。

「平和ボケ」の中で生きていられる日本は、この上なく幸せな國であることはまず間違いない。
「人は自分らしくあるべきだ!」と言う考え方が出来る事自体が稀有な事。

「平和ボケ」の何がいけないのか…?
ボケているだけでは、いつかは今ある平和を維持できなるからじゃ!
残酷で凄惨、強権的・支配的為政者が生まれる国にしないためにも、諸外国からの様々な挑みにも対抗出来る國にするためにも、日本国民一人一人が「平和ボケ」の先に見え隠れする世界情勢や国内外の不穏な勢力の動きに敏感になり、考え続けなければなるまい…。

それともっと高い人間性に裏付けされた、賢く・内省の出来る政治家や役人(特に外務省)を育てねばなるまい。
あまりにも程度の低い政治家が多すぎる。
これも「平和ボケ」が招いた結果なのかも知れぬが…。