お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

神戸でも5月に「こうべ祭り」が催されますが、本来的祭りってどんなあり様なの?

兵庫県生まれの民俗学者柳田國男は、「祭り」について次の様に述べておる。


「私などに言はせると、日本の神社の成立ほど、単純で自然でわかりやすいものは無い。
国内の最も大きな御社から、端々の無名の小社にまでも共通して、又一方には上世(じょうせい=大昔・上古・かみつよ)の記録にも表はれ、更に目の前の生活にも幾多の例のあることは、同じ血筋に繋がる者が集まって、共々に同じ祖先の好意に信頼し、又是に感謝しようとするのが、社に於て神を祭り始めた唯一の動機だったといふことである。
どうして此様に明白なものを、わざとわかりにくく六つかしく解して行かうとしたものか。
歴代の神道家の解説といふものには、寧ろこの単純なる事実を認めまいとするものが多く、しかも互ひに前者の説を覆(くつが)へして来て、殆ど彼等どうしの間の一致といふものが無い。
実に珍しい学問上の現象と言はなければならぬ。」(『氏神と氏子』1947年より)


古来より日本では、神様と御先祖様が一本に繋がり、一番古い御先祖様が神様となっておる。
其れでは元々御坐(おわしま)す神様方は何に感謝なさっているのか?
其れは「物が在り」「四季折々」の装いによって、生が恙無く、連綿と「継続する」…この在り様そのものを「感謝」と捉えておった。

清らかで豊かな拡がりを持った万福の「こころ」。
この内に棲まう自然(カムナガラ)の仁恵(じんけい=慈しみ・めぐみ・なさけ)。
これに対する喜びを「感謝」と捉えたのが、日本の神様の正体ではなかろうか?いわば感謝する事自体が神様なのじゃ。

空気を吸い、労働し、学び、ご飯を頂き、眠る…と言う、ごくごく当たり前のこと全てに感謝できる精神。
この精神を内奥に熟成させることこそが、日本人らしい神様との付き合い方だと言えるであろう。

「感謝」に根ざした日々を生きて行くことが、「神と民草(たみくさ=たみ・人民を草に例える)」が、共に喜びを分かち合う「祭り」に行き着く。
人間が生きる…と言う、「無限歓喜」を体内に留め置く為にも、「祭り」と言う清廉(せいれん=心が清く、私欲のない事)な場が必要なので有る。

本来の祭りとは、日々の実直な営みの中に宿る「感謝神」とも言うべき、自分自身の内奥の神様を喚起(かんき=呼び起こす)し、生きる喜びに触れる営みなのじゃ。