お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

「学ぶ」は「真似ぶ」ってどういうことですか?

「学ぶ」という言葉は、「真似る」から来ている。
則ち、より良い手本を見て真似をする事から始まる…ということだが、この解釈はなかなか難しい。

というのも、この「真似ぶ」という営為には、自分の手本となるお師匠様=恩師のことだが…この師匠を見るのではなく、師匠が見ているものを直視し、凝視せよ!ということを暗示している。

いくら師匠のそばにいても、何も考えず、言われるまま漠然と「お勉強」しているだけでは、何も見えてこないし、習得できない。
人間誰しも「ぼーっと」過ごしていては、今の自分の視点からしか師匠を見ていないことになる。

師匠の表層的行動や言動を安易に真似るのではなく、師匠その人が、何故その行動や言動をするのか?
自分の師匠は何を目的としてその行動や言動を行なったり、発したりするのか?
将又(はたまた)、師匠その人の佇まいの根源に何が横たわっているのか…?を、心底より探索し、これを「真似ぶ」べきだという事。

師匠より教えられ、伝授され、これを真似したことが、自分の内奥からの欲求に従いつつ咀嚼され、換骨奪胎されたその結果として、物事を深く理解し、その教えを体得出来るのではなかろうか?

自分が真似したことが、真に自分自身のものになるような学び方。
こんな学びの基本に立ち返って貰いたいと思う。

最近は自主性を重んじる教育を目指す学校が多い。
その割には相変わらず、主体性に欠落する勉強を継続する学生が多い。

本来的な勉学の在り方について、今一度見直す時期に来ている。
平成20年に高校3年生となる高校生から始まる、センターに代わる新しい試験制度の実施。
いくら新しい入試方法を模索しようとも、学び方を根本から見直さなければ、何も変わらない。
世界に打って出る人材も育たないであろう。

今こそ本当の意味での「真似ぶ」が求められている時代ではなかろうか?