お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

「彳亍(てきちょく)」ってどんな意味なの?

「彳亍(てきちょく)」とは、少し歩いては止まることを言う。
「彳」(てき)は左足の歩みを、「亍」(ちょく)は右足の歩みを意味する。

また「躑蠋」も「てきちょく」と読むが、この字の意味は、「彳亍」と異なっていて、足踏みすること、ためらい躊躇することを意味している。

一方、先に挙げた「彳亍」の字には、心理的戸惑いが見られない。
「彳亍」と言う言葉自体は、日常的にあまり使用しないが、この字は、人間の生き方そのものを表しているように思えてならない。
時にはがむしゃらに頑張ることも必要だが、それより大事なことがある。
少しだけ前を向き、立ち上がって歩き出す。立ち止まっても良いから前を向く。

立ち止まっていても、ただ只管前を向き、前進しようとする「心の向き」を保持しつつ生きる事。
これこそが人間が人間らしく生きる上で重要な事であろう。

そうすれば、嫌なことがあっても自暴自棄にならないし、周りにチヤホヤされても天狗にならずに済む。
苦しい事があっても、苦しい事を引きずりながら生きて行ける。
苦しみを引きずっているうちに、苦しみが引き摺られる摩擦によって、苦しみ自体が摩耗するであろう。
悲しい事があっても、悲しみの涙を流しながら前を向く事ができる。
そのうちに悲しみの涙が乾いて来るだろう。

その場にじっとしていたり、後退(あとずさ)りしたり、「時間」を自分の心の中に閉じ込めていたら、それだけで自分で「自分の核」となる大事な部分を閉鎖空間へと誘ってしまう。
それでは生きている意味が半減するではないか!

少しだけ進み、ちょっと休んで立ち止まり、また歩き出す。
この絶妙な繰り返しを飽くことなく続けて行くと…どうなるか?
それはまさに生き方の「黄金律」を手に入れることに他ならない。

突っ走ることをせず、さりとて後ろ向きになることもなく、立ち止まることはあっても、よそ道に逸れることがない。
そんな「ブレ無い人生」を、淡々と生き抜く覚悟というのは、自分自身に「自信とゆとり」を齎(もたら)してくれる。
すると人間としての度量が大きくなり余裕が出てくるから、他者に対して寛容になってくる。
と同時に、他者を慮(おもんぱか)るが故に、厳しく接する事もできる。

キリスト教倫理の原理たる「黄金律」。
則ち「人からしてほしいと思うことの全てを人々にせよ」と言うマタイの福音書7章12節の言葉に近い生き方に到達するのではなかろうか?
「自信とゆとり」を獲得した人間だけが、他者を慮る事ができるのだから…。

再度言うが、淡々と前を向いて歩こうとする姿勢が、生きる上で一番大切な事である。
そうする事で良いことが起こったり、奇跡を目の当たりにすることになるのではなかろうか?