お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

「どの様に生きるべきか?」と「何者かに生かされているの?」の違いって何なの?

人は時として、「自分はどう生きればいいのだろうか?」と、悩む時がある。
しかし、そんな自分は一人で生きていないを知っているはず。
多くの人達、知っている人も知らない人も含めて、今、ここに、生きている自分は、多くの人々の支えによって生きている。

しかしそれだけではない。
今、ここに、自分が存在することの背後には、其れを下支えする「何か?」の存在をヒシヒシと、感じざるを得ないのである。
そんな時人間は、目には見えぬが、厳然(げんぜん)と在る「何者か?」の存在を感じ続けているのだ。

人間は常に、自分を中心にものを見、考える習慣が、身に付いてしまっている。

よって、「私は〇〇を感じる…!」とか「私は〇〇だと考える…!」というようなもの言いをする。
しかし、少し深く内省すれば、こんな感じ方やものの考え方をしていていいのだろうか…?と疑いたくなって来る。

むしろ「〇〇が、私(人間)に、何かをさせるべく働いている」その為に、「〇〇が、私に何かを感じさせ、気付かせようとしている」と、考えるのが、一番無理がないのだ。

人間の前に立ち現れた事象や状況に対して、一番初めにやらねばならぬこと!
それは、僅(わず)かなりとも、思慮分別(しりょふんべつ)を加える事をせず、自らが正邪を判断することなく、事実・事象を其の儘、丸ごと「全身全霊(ぜんしんぜんれい)」で受け止める事!

そうすれば、其処(どこ)かに、僅(わず)かに感知できる「見えざるもの」の本懐(ほんかい)を、垣間見る事ができる。
爾後(じご)のことは、より深い肯定的内観によって、様々な問題や心の在りようを突き詰めていけば良い。

詰まる所「私はどの様に生きればよいのか?」とは、「何者かが私に何をさせようとしているのか?」と置き換えて考える方が、道理にあっている。

今、正に体験する全てを、すなおに受け入れることで、詰まる所、究極の自分自身と邂逅(かいこう)するのではなかろうか?

常に純粋体験を全面的に受容し、純粋経験へと昇華すべく、「今在る事実や現実」と向き合い、其処(そこ)に正邪の判断を下すことなく、自らの本願を知る努力を重ね続ける。

そうすることで「どの様に生きるべきか?」という問いかけから端を発し、「何者かに生かされている!」という、思惟(しゆい)へと繋がっていくのではなかろうか?