『歎異抄』について教えて!(3)
『歎異抄』には、次の様な言葉が載っている。
また浄土へいそぎまいりたき心のなくて、いささか所労(しょろう)のこともあれば、死なんずるやらんと心ぼそくおぼゆることも、煩悩の所為(しょい)なり。
久遠劫(くおんごう)よりいままで流転(るてん)せる苦悩の旧里(きゅうり)は捨てがたく、いま生まれざる安養の浄土は恋しからずそうろうこと、まことによくよく煩悩の興盛(ごうじょう)にそうろうにこそ。
(『歎異抄』声に出して読みたい日本語・草思社・46〜48ページ)
これを訳せば、次のようになる。
また、早くお浄土に往生したいという心が起こる事がなく、少し病気になれば、死ぬのではなかろうか?と、心細く思うというのも、煩悩の振る舞いである。
果てしなく遠い昔より今まで、生まれ変わり死に変わり続けてきた。苦悩に満ち満ちた迷いの世界が捨て難く、いまだに往生したことの無い、安らかな悟りの世界を、恋しく思えないのは、我々はよくよく煩悩が盛んであるからなのであろう。
はたから見れば、何の不安もなく、心配事などなかろう…と思える人に限って、本人にとっては、とんでもないほど大きな悩みや不安の塊を抱えていることがある。
悩まなくてもいい事に、悩み・苦しみ、果ては世を儚(はかな)むところまでいってしまう。
これも煩悩のなせる技なのだ。
今の自分自身がやるべき事をしっかりやり、謙虚に生き、お浄土に往生しようと願って、自分の背後を支えてくれている「何か」に感謝して生きれば、この世を楽しく生きられる。
その楽しさは、自分の内面から湧き出してくる楽しさだ。
他者から見れば、不安極まり無い事であっても、自分の内奥が喜びに満ちていれば、自分が今生に生を享けた意味を体感できよう。
これを真の幸せと呼ぶのだろう。