お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

日本語の不思議―1

日本語と外国語、とりわけ欧州の言語との違いは、大きく3つある様に思う。

1つめは、「私」に纏わる単語の軽重(けいじゅう・けいちょう)である。
英語は誰もが知るように、五文型すべて主語が最初に来る。
その時、自分自身を示す言葉は、常に「I」となる。
又、文中にあっても、「I」だけは、大文字で表記される。
実に英語における「I」は、特別な輝きを放っていると言えよう。

一方、日本語にあっては、「一人称単数単語」を延々と表示しなくとも文章は成立する。
又、主語を動詞の中に落とし込む事さえ出来る。
一人称単数表記を忘却したかに見える日本語だが、一人称単数を表現する単語の何と多い事か!

私(わたし・わたくし)から始まり、僕、俺、我輩、儂、手前ども…等々、多くの一人称単数単語が存在する。
又、僕という単語ひとつとっても、ぼく・僕・ボク…といった具合に、表記方法一つで、意味合いや読み手の感覚が異なってくる。
主語を欠落させることが多い日本語にあって、種々雑多な「一人称単数単語」が、日本語世界を豊かに拡げている。

2つ目の違いは、文末にある。
欧州語の文章の多くは、名詞で終わる。
そのお陰で、様々な変化を堪能できる。
ところが日本語の場合、動詞が文末に位置するために、「である」・「だ」・「です」などと言う「とりまとめ言葉」が、幾度と無く繰り返されてしまう。

世界中の言葉は、動詞の数は名詞よりうんと少ない。
ことに、基本動詞ともなれば、数える程しかないのが実情だ。
斯くして日本語の弱点は、文末にあると言えるのではなかろうか?

3つ目の違いは、1・2とも連関するが、英語は、前述の通り、五文型に則る「形式依存言語」であるために、予測がつきやすい。
一方日本語は、いつ何が記されるか、予測出来ない。
そのために基本的な日本語作文を教えることは困難となる。
一応学校では、「原稿用紙の使い方」と称し、原稿用紙を使うイロハの「イ」辺りまでは教えてくれる。
ところが、句読点の打ち方や段落の変え方辺りになると、突如教えること自体が困難になる。
教える方も教えられる側も、急に流れの速い河に飛び込み、泳ぎをマスターせねばならない様な、荒くれた様相を呈してくるのだ。

例えば段落の扱い。
辞書で段落の定義を見れば、長い文章中の大きな切れ目…とある。
この切れ目が曲者(くせもの)である。どこが大きな切れ目なのか、人によって異なっているからだ。
一般的には長い段落は敬遠される。

もともと日本語は、段落の様な明確な「切れ目」を忌避していたのかもしれない。
しかしまとまりある文章を手に入れるには、段落の感覚を養わねばなるまい。

日本語に於ける「典型的段落」の概念を今こそ形作る必要があるのかもしれない。