お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

「大峰山千日回峰行(おおみねさんせんにちかいほうぎょう)」って何なの(2)?

昨日「大峰山千日回峰行」を満行したのは、千三百年の歴史上二人だけで、その中のお一人が、塩沼亮潤大阿闍梨だと紹介した。
行の始まりは夜十一時二十五分の起床。
先ずはお滝に入り身を清めるらしい。
五月とはいえ、氷点下近くまで気温が下がっても、お清めを欠かすことはできない。
二個のおむすびと500mlの水を携えて出発する。
提灯(ちょうちん)の灯りだけを寄る辺に、漆黒(しっこく)の闇の中、たった一人で只管(ひたすら)お山を歩き続けるのだ。

大阿闍梨によれば、行を始めて四百六十日目に、大峰山山頂近くで、背後から熊に追いかけられた事があったと言う。
とっさに杖を投げつけ、大声を張り上げると、運良く熊は退散したらしい。
又、目前で崖が崩れ、行く手を阻まれた事もあったとか…!これだけでは無い。
山中でもし蝮(まむし)と遭遇し、うっかり踏みつけ咬まれたら、血清を持たない行者にとっては命取りとなるのだ。

こうして、ようよう午後三時半にお堂に戻って来たら、掃除・洗濯・翌日の用意をする。
睡眠時間は概(おおむ)ね四時間半。

こんな生活を千日継続するのだ。
行を始めてからそれが終わるまで、一日たりとも休むことは許されず、もし行をやめる場合は、自害用の脇差(わきざし)で腹を切るか、これで死に切れ無い場合に備え、「死出紐(しでひも)」まで用意していたと言う。

毎年行を始めると、決まって三ヶ月目には血尿が出、更には、尋常ならざる心臓への負担の為、気を失った事もあるらしい。
大阿闍梨最大の修羅場(しゅらば)は、行の中程で起こった、激しい腹痛だったらしい。
三十九度五分もの熱にうなされ、二時間おきに下痢が起こる…と言う、過酷な状況であったという。
山中で倒れた時は、ここで自害するしかないのか…と思ったらしい。

その折、入行前、母上から掛けられた次の言葉が、耳に迫ってきたのだ。
「どんなに辛くても、岩にしがみついてでも立派になって帰って来なさい」
その時大阿闍梨は、『こんな所で倒れている場合じゃない』と奮起し、汗と涙に塗(まみ)れつつ、気力だけで走り続けたらしい。

大阿闍梨はこう仰っている。
心身ともにボロボロになって来た時、足元を見るとささやかな花が咲いている。
「うわー、本当にきれいだな」と、自分が生かされている事を自覚し、涙が出てくる。
更に一層深い境地に没入し、花は大阿闍梨を感動させるために咲くのではなく、天に向かって自分の為すべき姿を表現しているだけであるのに自分を癒してくれる。
その時『自分は周りの人達に対してそう言う存在であったかな』と気づくのだと言う。
この後大阿闍梨は、千日回峰行より更に危険な「四無行」という荒業にも挑んだのだ。

人智を超えた行を行ずる事で、人間(じんかん)の本懐(ほんかい)へ到達する大阿闍梨の努力を見習い、生れながら、自分自身に課せられた本質的勤めを全うしたいと思うのである。