お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

「冬至」ってどんな日?

冬至」とは、二十四節気の一つで、太陽の黄経(おうけい・こうけい)が、270度に達する日を指している。

黄経とは、天球上の一点から黄道に下ろした大円の足を、「春分点」から測った角距離のことで、赤経同様「春分点」から東のほうへ測るものである。

冬至」は北半球にあっては、正午における太陽の高度が一年中で最も低く、昼が一年で最も短くなる。
太陽暦で表すと、12月21日となる。

冬至」に纏(まつ)わる言葉には、「冬至」の頃に咲く梅を「冬至梅(とうじうめ)」と呼び、「冬至」の日に頂く小豆粥(あずきがゆ)を、疫鬼(えっき)を払うとして、「冬至粥(とうじがゆ)」と言う。
これを無病息災を祈念しつつ、有り難く頂くのだ。又、南瓜(かぼちゃ)を保存しておき、冬至に食す風習を「冬至南瓜(とうじかぼちゃ)」と呼ぶなど、古(いにしえ)より、太陽の力が一番弱まる時期を、心身共に乗り切る工夫がされている。

冬至」という言葉を聞いて、途端に心に浮かぶ人がいる。
それは黒住宗忠(くろずみむねただ)氏である。この方は、「黒住教」開いた方で、安永九(1780)年十一月二十六日の「冬至」の朝に、備前国(びぜんのくに)御野郡(みのこおり)上中野村(かみなかのむら)で産まれた。
父上は同地、今村宮(いまむらぐう)の禰宜(ねぎ=神官)であった。

宗忠氏は、幼少期より孝養を尽くす少年であったという。
そんな宗忠氏の両親が、文化九(1812)年、相次いで亡くなってしまった。
傷心(しょうしん)やる方ない宗忠氏は、ついに病の床についてしまったのだ。
そして文化十一(1814)年十一月十一日、「冬至」の朝がやって来た。
この日宗忠氏が日拝(にっぱい=太陽を拝むこと)し、一心不乱に祈念していると、太陽の陽気が体全体に満ちわたったという。
この時のことを、宗忠氏は、次の様に語っている。

「笛を吹き糸をしらべ金(かね)をたたき、鼓(つづみ)を鳴らして歌い舞うとも及び難い」
ほどの楽しさで、心気とみに快活になったと言う。
これが宗忠氏の生涯を決定した回心(かいしん=神の道に心を向けること)の体験であった。

この様に、「冬至」には、人間の心を慰撫(いぶ)し、育む力を内在化させている。
今年の「冬至」は、十二月二十二日。
一陽来復(いちようらいふく)」と言われる「冬至」は、陰極まって陽と為す…典型的な日でもある。
冬至」を境として、全ての運気が良くなる…と言われている。

三週間後の十二月二十二日の「冬至」を、「一陽来復」の好機とする為にも、これからの三週間、より実りある過ごし方をしよう…と考えている。