何のために勉強するの?
中学生や高校生ともなれば、一度や二度「何のために勉強するのか?」と大人から問われたり、自分自身が先生や親に問いかけた事があるのではなかろうか?
大人が子供達から問いかけられて返答に窮する質問の一つが、この「何のために勉強するの?」という問いかけであるだろう。
世の中の多くの親達が、「将来安定した職業に就くためですよ!」とか、「人並みに勉強していないと社会に出たら困るでしょう!」また「いい学校、いい仕事、良い結婚をするために勉強しなさい。」…と言った具合。
最後はもう強迫めいてきて、勉強しないと、どうしようもない学校に入ったり、割に合わない仕事についたり、訳のわからなぬ結婚をするしかないのかな?と思ってしまいそう。
そもそも「何のために勉強するのか?」という問いかけに対し、仮に最上級の答えがあったとしても、その返答を聞いた子供達が納得しなければ、その答えはもはや何の効力も持ち得ない。
「何のために勉強するのか?」という問いかけに対する返答をジャッジするのは、その返答を聞いた人自身の「物差し=価値観」でしかない。
自分の価値観にあてはまらなければ、その答えは役立たず…となる。
答えが役に立つ、立たない…を決定する根拠は何なのか?
自己決定するのは、自分自身だという絵空事に端を発しておる。
よく「何事も子供の自主性に任せています…」という親御さんを見かける。
世の中の事を全く知らない子供、ましてや将来を俯瞰する力の無い若者に本質的な自主性など芽生えてはおらぬ。
自主性という名目で、将来を見抜く眼力を摘み取ってはならぬ。
面白くて役に立ちそうに思える勉強ほど時代遅れだったり、その子供にとって先見の明(せんけんのめい=事が起こる前にそれを見抜く見識)を欠く内容だったりする。
今役に立つとか立たないという要素だけで判断する事なく、柔軟な知性と判断力を慈育(じいく=慈しみ育てること)して欲しいものじゃ。